2026/2/1~2026/2/7 英語週次ログ#6
Channel:Shiori Novella Ch. hololive-EN
The Stream Title:Insomniac Hours with Shiori~n! 【OUTFIT DEBUT】& MAJOR ANNOUNCEMENTS! (重大告知あり)#SleepyShio
この配信を見る前、自分の意識を全集中させるために、PC周りの機器と置き場がなくて困ってる積読本が詰まった箱以外を全てテーブルから排除した。
しかし、マウスケーブルやモニターをつなぐためのHDMIケーブルが邪魔だ。
なぜ無線のマウスを持っていないのか心底後悔している。
Shioriが作り上げた配信の世界観に自分の細胞、心の全てを集中させたい。
なのに、なぜケーブル如きにShioriのパジャマ姿お披露目配信への集中を途切れさせられないといけないのか。
ケーブル、お前もうちょっと空気を読んでくれ。
週次ログというか、Shioriの新衣装お披露目の話になる。あのパジャマ衣装お披露目を体験したら他のことが書けなくなった。
でも正直、あのShioriのパジャマ姿について何かを書こうとすること自体野暮な気がする。
Shioriのあの新衣装を観てたら、この眼でみてたら、可愛いとかそういう言葉の器では全く表せないということは全人類分かることだ。
あのパジャマ姿を表す形容詞は何だ?とかそんなことを考えそうになってはやめる。
じゃあ可愛くないの?そんなわけない。じゃあ可愛いの?そんなわけない。
この感覚は言語化してはいけない。
言語化したら、自分の中の熱や今にも爆発しそうな何かが整頓され、冷めきってしまう。
この感覚を言葉にしようとすることは、この感覚を冷まして自分を冷静に保とうとすることと同じだ。
そんなのは嫌だ。あのパジャマ姿を目の当たりにしたこの感情はもっとよく分からないぐちゃぐちゃしたものにしたい。
あのパジャマ姿のことを頑張って言葉にするくらいなら「えげつない」とか「やばい」とかで済ませた方がましだ。
てか、人間が「えぐい」「やばい」「えげつない」を使うのってまじで素晴らしいよな。
「えぐい」「やばい」「えげつない」を使うのは陳腐な言葉に逃げている行為じゃない。
言葉にならない感情を無理やり「言葉」という箱に閉じ込めてそれっぽくこねくり回して整理して言語化して「なるほど。今自分はこういう感情だったのか」って整理しちゃうと、他人には絶対に伝わらない自分の中の熱が冷めちゃうって本能的にわかってるからこそ、それを避けるために「やばい」「えぐい」「えげつない」を使うんだ。
大好きなアーティストのライブ終わりにこの感情がどういうものだったかをいちいち言葉に置き換えたら、マジで冷めるぞ。自分がそのライブで体験した強烈な熱が。
だから、Shioriのパジャマ姿お披露目配信を見て感じたこのぐちゃぐちゃした感覚をきれいな言葉にまとめようとしちゃいけない。
「可愛い。本当に可愛い。ピンクがすごくShioriに似合ってるし、涙を見せたときのか弱さが母性本能をくすぐる。リボンやレースのディテールもすごい!リボンはフリフリ感満載で可愛いだけじゃなくて、結び目に近づくほど影が濃くなるあの細かな描写も見どころがある!」みたいに自分の体や心に来た感覚を逐一言語化しようとすると、Shioriのパジャマ姿によって自分の中の何かが破壊されたあの衝撃もどこかに消えていってしまいそうで怖い。
本屋で立ち読みしてたとき、とある本に「フォントをデカくした文字の前では、どんな表現技法も吹き飛ぶ」みたいなことが書いてあった。
試しにやってみよう。
Q, Shioriのパジャマ姿、どうだった?
A,
え
げ
つ
な
い
文字を赤くしたらさらにすごくすごいことになるんじゃないかと思ったら、えげつなくえげつなかった。
これを見ると、どんなに頑張って自分の思考をつらつらと言語化したとしても、でかくて赤いこの5文字以上にあのパジャマ姿の破壊力を表現することはできないんだと思い知らされる。
言語化の限界だ。
好きな気持ち、燃え上がるばっくんばっくん、じーんじーんする気持ちを言語化してしまった瞬間、自分の内なるぐちゃぐちゃな感情のような何かは、その言葉の中に納まるようにしぼんでいく。
説明がうまい人にあこがれを抱くあの発作は何なんだ?
説明上手なエリートビジネスパーソンだとしても、言葉を忘れて「ぎゃあああああああああああああうおおおおおおおおおおおお!!!!!」って叫んでる時の方がよっぽど人間らしくて好きになる。
どれもこれも資本主義のせいな気がしてならない。
人に伝わる説明をすることでチーム作業を効率化させ、業務を遂行し富を生むことを要求してくる資本主義。
人にわかりやすく説明すれば確かにあらゆる活動は円滑に進む。
でも、それが加速して、「分かりやすい説明をしたい!そのために言語化能力が高い人間を目指そう!」となってくると、言葉の枠組みに収まる表現こそが自分を表すすべてだと思い込みかねない。
本当は全然そんなことないとしても。
ヨルシカの「春泥棒」という楽曲にこんな歌詞がある。
「花開いた今を言葉如きが語れるものか」
今の自分の状況と曲の状況はだいぶ違うだろう。それでもこの歌詞を思い出す。
n-bunaさん、ありがとう。本当にこの歌詞が大好きなんです。何を食べたらこんな歌詞を思いつくのですか?
人生何週目ですか??
まさか、以前の「前世」の公演はn-bunaさんが人生X週目であることの伏線だったんですか???
(Xは2以上の自然数)
Shioriのパジャマ姿をこの眼で観て自分の中に開いた花を言葉ごときに表現できてたまるか。
言葉そのものに全部頼ろうとすると、冷めた人間になりそうで怖い。
なのに資本主義が言語化の重要性を加速させてくる。
資本主義君、お前はもっと「ぎゃああああAAAAAAAAgtewonienotdnoaiwegmegie。魑魅の怒りに燃え広がってんマーガリンの気持ちが初代15代目副大統領の孫のおじいちゃんに分かるまい!!!!弟が妹の中の妹なら貴殿の地球すらもウィンドウズを救う大アリクイの子アリクイになるやもやもやみー」ってでっかい声で言え。
とはいえ、資本主義があるからこそ、Shioriはあのパジャマ姿を披露できたという面もあるので、「資本主義嫌だ」と思った1秒後に「資本主義最高!」って思ってる。
たぶん、hololiveやIronmouseのライブの感想を英語で書きたくなったのは、「日本語」という英語よりもある程度詳しい言語で書いてしまうと、意味を理解した状態でしか文章を書けなくなってしまって冷静になっちゃうからだ。
自分の中にあふれ出る「何か」は、英語というまだまだ訳分からないことだらけの言語の箱を使うことで表せるんじゃないか。あのときはそう考えていたんだと思う。
Shioriの英語は速くて聞き取れないこともあるし、聴きとれても何言ってるのか理解できないこともたくさんある。
分からないことが多々ある。なのになんで観ずにはいられないんだ?
と思ったこともあるけど、多分逆だ。分からないからこそ観たくなるんだ。
日本語話者が何を言ってるのかは大体わかる(つもり)。
日本語が持つ箱の大きさや状態が分かるからこそ、自分にとって日本語話者の言葉はその箱の中に納まってしまうからきれいで冷めた言葉に感じてしまう。
むしろ、英語のように分からないからこそ、英語の箱がどういうものかもまだまだつかみ切れていないからこそ、英語話者に対してカオスな熱量をより強く感じて追いかけたくなるんじゃないか?
Shioriのパジャマ姿をこの眼で観て、自分の中の何かが確実に破壊された。
言語の限界をまた思い知らされた。
もうどうしたらいいのか分からない。
助けて、Shiori。ありがとう、Shiori。

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